先日なんとなくぼーっと考えていたときに降りてきたビジョン。人は人に対して、いろいろな感情を持つわけだけど、それは感情として単体で存在するわけではなく、何等かの力学的な働きを持っているのではないか、ということ。ドラマの人間関係図でよくあるように、人と人との間に⇔か何かが引かれて、嫉妬とか憧れと恋慕とか、その関係における感情のラベルが貼られるあれ。あれはまさに現実なのではないか、というのがこのぼくの思念です。
感情の交流、交感が人々の関係性を力学的に構成しているとすると、それをちゃんと感じ取る能力は極めて大切なのだろうな、と思う。ぼくは長年KYと言われてきた。いわゆる空気が読めない男である。そう言われてもどうしようもない。だって読めないんだもの。空気なんてどこにあるのか、さっぱりわからない。でも最近、このビジョンとも関係があるのかも知れないけど、それはぼくの人の感情への無関心が原因だったように思うのだ。ぼくは基本的に他人に興味がない。(極論すると、です)いまも本質的にはそう。でも人間関係とは感情による力学だとしたら、感情に無頓着なぼくは損をするに決まっていたんだと思う。
そういうぼくの鈍感さが人を怒らせ、その怒りがぼくの毎日に何等かのネガティブな力学的影響を与えていたのかも知れない。肉親からぼくに向けられていたネガティブな感情すらをきっとぼくは感知せずに50年を生きてきたのだ。KYと言われることにまったく関心を払わなかったぼくが悪いのだろう。父が死に家族と絶縁し妻にも厳しく叱責されて、ぼくは初めて自分を顧みた。ぼくは人の感情に対してあまりにも無頓着だった。人を喜ばせたりしようと思ったことは皆無だった。そのかわりもっと崇高なもののために生きようと思っていたことはあった。そのこと自体は悪いこととは思わないが、目の前にいる人の感情を大切にしてこなかったことはおそらく事実だ。
中学生の頃、トルストイをよく読んだ。人間の業、最もどろどろとした感情について書いた作家は、家族にとって極めて酷薄な人だったと、その伝記で知ったことがある。そのとき傲慢にもぼくはトルストイと自分は同じ種類の人間なのかなと思っていた。人を喜ばせたりするのはいいことだ。近しい人に愛情を注いだり、思いやったりすることはいいことだ。昔はそんなことよりも崇高なことのために生きたいと思っていた。でも今は少し違う。50年来のKYがすぐに逆転するとは思えないが、人を喜ばすことのできる人になりたいなという自分がいる。それは結構すごいことなのです。
猫になら素直に愛情を表せるのにな。