ぼく、変わり者って言われます
まあ普通の人を目指してないから仕方ありませんが、よく「変わっている」と言われます。見た目は普通です。というか、見た目はどちらかというとキレイ目だと思います。自分で言うのもなんだけど。
でもよく知っている人からはこんなことをよく言われます。
- 君は変わってるね
- 強情だね
- 頑固だね
つい先日も奥様の絶対君主エカテリーナ2世様といろいろ会話しているときの一コマ。
奥様:わたしはこどもの頃からワガママなの
ぼく:無言(知ってるわ、そんなこと)......まあ、ぼくもワガママだけどな
奥様:あなたは偏屈、しかも年々偏屈になる
こんな感じのやり取りがときどきあります。ぼくは自分のことを「正直者」だと思っていて、自分の心に忠実に生きてるだけなのになぁ。それを「偏屈」というのでしょうか。
「偏屈」を英語でなんて言うのかなと思ってGoogle翻訳してみたら、こんな感じでした。
Biasedか。結構、科学的な訳ね。「偏屈」を「平均から離れた」「偏った」と考えるのかな、英語だと。
でも「変わっている」だとものすごく単語にバラエティがあるのが面白いですね。「変わっている」ことへの拘りがものすごいのかな、英語圏の人々。
逆にこんなにいろいろな概念を「変わっている」という一言のニュアンス違いで表現しているのが日本語の難しさ、すごさと言えるかも知れません。
「変わっている」という単語を並べて見ていて、こんな曲を思い出しました。
A Most Peculiar Man live by Simon and Garfunkel Granada TV 1967
Edited and Remastered by this chanel, Juanfunkel. Simon & Garfunkel live from Manchester, Granada TV, 1967 http://simonandgarfunkel.es
高校生の頃に弾いていた曲「とても変わった人」と訳されていたな、ぼくが持っていたギターのタブ譜では。
とても変わった人=中島義道
そんなわけでぼくは「割と変わった人」と思われています。
the most peculiar man
ではなく、
a peculiar man
くらいでしょうね。まだまだ精進が足りないかな。(笑)
たしかにぼくは少し変わっているという自覚があります。なぜなら、みんながしていることはしない、みんながしないことをする、というのがぼくの一つのモットーだから。
人と同じことをしていたら、人と同じような人になり、同じような人生を送ることになると思うからです。
変わってるかな?
そんなぼくから見ても「これは変わってるなぁ」と思ったのが哲学者の中島義道です。この人は本当に面白い。笑えるほど変わっていると思います。
最初に読んだのは、この本。
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これが面白かった。中島曰く、日本中には「無意味なアナウンス」が溢れています。「無意味な上にうるさい」のでこのアナウンスを「本気で止めさせたい」と考えるのが変わった人である中島です。
気が狂わんばかりにこの「無意味なアナウンス」や「無駄な照明」が嫌で、精神ばかりではなく、実存的にも受け入れがたい、というのが中島の主張。しかしたいていの普通の人はその苦しみを共有できないのです。
- バックします、バックします、バックします
- いらっしゃいませ、いらっしゃいませ、いらっしゃいませ
- またおこしください、またおこしください、またおこしください
- 足元に注意してください、足元に注意してください、足元に注意してください
ただ垂れ流されるこれらの「無意味なアナウンス」を心の底から、そして実存から拒絶し、どんなことがあってもその主張を変えることをしない男。間違いなく変わった人でしょう。
でも彼は「変わっている」とは思っていないはず。自分の深奥から湧き出る直観に忠実に生きているだけだと思います。ただそれがまったく受け入れられないことから、自分は少数派であることを強く自覚しているだけです。
そして彼のような少数派のことを「変わった人」と断じて切り捨てようとする多数派の無神経さと残酷さを心の底から糾弾するわけです。
この主張には頷けると思っています。多数派は少数派のことを往々にして断罪します。その主張はこんな感じ。
- なんでみんなに迷惑をかけるんだ
- おまえさえ従えば丸く収まるんだ
いやー、嫌ですねぇ、これが日本を覆いつくす同調圧力という奴の正体、多数派による暴力です。政治は多数決ですが、社会活動は多様であるべきで少数派の立場も尊重しなければなりません。
Diversityなんて言葉ばかりが躍りますが、日本社会は上記のような多数派による少数派への暴力が横行する、多様性を受け入れる「寛容さ」に欠ける社会、だとぼくも思っています。
そこでは少数派は「隠れて生きる」しかない。しかしそこで声を上げる中島などの哲学者の姿は、少数派の目には「ある種の英雄」として映るわけです。だから、中島の書籍は少数派に愛されるのです。
でも中島は誰かに愛されたくて戦っているわけではない。ただ自身の直観に忠実に従っているに過ぎない。おそらく少数派の人が中島に近づいて、
「先生の本のファンなんです。サインしてください。」
なんて言ったら、ケンモホロロに拒絶されるのではないかな。普通にサインとかしちゃうのだろうか。いや、こういうところはマジで「変わった人」であってほしいと思うぼくは変わり者なのかしら。(笑)
変わり者でいたいのなら行動で示せ
こんな文章を書いているぼくは、はたして変わり者でしょうか。奥様に「偏屈」と言われるだけで変わり者になれるのでしょうか。ただ「少数派」であることは、いろいろな性格診断などでもわかりました。
少数派である自覚を確実にするために(いや大半の人は多数派であることを自覚することになるわけですが)こうした心理テストや性格診断は有効だなと思っています。
ぼくは、変わっているかどうかは別として「少数派」である、と言えるかと思います。だからか「本当に変わっている人」への憧れのような気持ちがあるのは事実です。ぼくが好きな「本当に変わっている人」の一人が中島義道です。
彼が本当に変わっているかどうかは会っていないのでわかりません。でもそんな期待を持っています。カント、ニーチェ、サルトル、キルケゴール、ヴィトゲンシュタイン、フーコーなど、ぼくがその著作を読んで影響を受けた哲学者や思想家たち。彼らは本当に「変わっている人」だったのでしょうか。
マーラーやブルックナーやワーグナー。あるいはモーツァルトやバッハ。シャルル・ミュンシュやセルジュ・チェリビダッケ。音楽家や作曲家、指揮者などの方がもしかすると「変わった人」が多かったかも知れません。
変わっていることとは、思想よりは行為で示すもの
この文章を書きながら、そんなビジョンがぼくの中に芽生えてきました。やはり人がしないことをする、それが一番大事なのではないかな。
Make Life a Ride
人生を、旅するように生きる
このメッセージを胸に「多くの人がしないことをする」のが後悔のない生き方なのではないか、と改めて思います。
このBMW Motorradのヴィデオに出てくる男。実在の人物だとするならば、こんな男こそ、変わった人だと思います。憧れるぜ。
MAKE LIFE A RIDE【CAPTURE篇】
MAKE LIFE A RIDE. 人生が、単調なハイウェイであるはずはない。 その道は、交差点や上り坂、下り坂、 様々な曲がり角によって出来ている。 他の誰でもない、君によって創られた道だ。 http://make-life-a-ride.jp
今回紹介した「うるさい日本の私」の類似書もあります。面白いですが、基本的なメッセージは同じなので、どれかを読めばいいのではないかと思います。中島ファンなら全部読んでもいいですけど。
ぼくに影響を与えた中島義道の本としてこちらも紹介しておきます。